出来ないことがあっていい 大人と子供の違い

人生論

大人と子供の違いって何だと思います?

見た目とか単純に年齢とかはありますが、どんなに体が大人になっても「成人」と言われる年齢になっても心や精神、考え方や思想が子供のままの人っていますよね。

これの答えは一つではないと思いますが、「あえて1つに」と言われたらなんでしょう?

昔、友人が言った「月末に支払いがあるかどうか」って答え以上の答えをまだ聞いたことはありませんが笑

僕が思うに大人と子供の違いは、「できることと、できないことをわかっている人」だと思います。

このブログを書いている少し前にTV番組で、ある超人気アーテイストが「自分が無理と思うことほどやったほうがいい」と言っていました。

とっても素晴らしい言葉だと思います。
この方が言うように自分でできないと決める必要はないんだと思うんですね。

だから、どんどん挑戦したほうがいいとは思いますが、この考えはとっても有効な「薬」ですが「劇薬」でもあるんです。一つ間違えれば「猛毒」にもなります。

やる前から「無理」と決めつける必要はないんです。だから、それはやってみないとわかりません。
でも「やってみたら無理と思っていただけで本当はできるって事もるけど、同時に本当に無理な場合もある」ってことです。

この方はこんな事も言っています。
「向き不向きはいっぱいあるが、人間が必ず不可能なことはない」

このアーテイストの方の曲は僕は好きなので批判をする気はありませんが、この言葉は場合によっては人を殺します。

そしてこれは「生存者バイアス」でもあるわけです。

生存者バイアスっていうのは「失敗例を考慮せず、成功例にだけに着目して物事を判断している状態」なんです。

これの有名な話は、第二次世界大戦中に帰還した爆撃機の敵からの攻撃で損傷した箇所を統計を取りました。そしてその多く損傷していた箇所を補強しようと考えたんです。
でも、これは「帰還」しているわけで、言い換えれば「そこが損傷しても帰ってこれる」わけすよ。

本当に損傷したらダメなところを攻撃された機体は帰還していないわけです。

このアーテイストは若干20代前半で世界的なアーテイストになっています。
もちろんこの方が何の苦労もしていないとか挫折がないとはいいませんが、多くの人から見たら「若くして大成功している天才」でしかないわけです。

確かにこの方の言葉のように人には「不可能」はないのかもしれません。

昔、僕がまだ30代のころにある成功者の人と口論になったことがあります。

あることを僕は「できない」と言ったらその人は「できないじゃない。やらないだけだ」と言うんですね。

そこで僕は「やらないんじゃない。やろうとしてもできないんだ」と反論しました。

するのとその人は「いや、本気でやろうとしていないだけだ」と言います。

僕は「そんなことはない、どんなに頑張ってもできないことは人にはある」と言うと今度は・・・

「それなら、もしあなたの子供が誘拐されて『殺されたくなかったらやれ』と言われてもできないのか?」と言われました。

これは、自己啓発とか成功者によるセミナー的な世界で「意識高い系」の人が当時よく言っていた「できない」という人への常套句だったんです。

これを言われると多くの人は、「それならやるだろうけど・・・」となって、そこに「やっぱり、やれるじゃないか!やろうとしてなかっただけだろ!」と詰められるんです。

その人もこの言葉で多くに人をやり込めてきたんだと思います。大勢の前で必殺技を出して勝ったと思ったんでしょうね~

僕はその言葉に対してこう答えました。
僕「確かにあなたの言われるように、子供が誘拐されて脅されたらやるでしょうね」

その人「ほら、そうだろう」

僕「でもそれは、あなたがやらそうとしていることは、『子供が誘拐される』なんて多くの人は一生に一度もないような非常事態に追い込まれなければ『やれない』ってことですよね?だったら、平常時の僕らにできないのは当たり前では?そして、そんな状態でしかできないようなことならやりたくありませんね」

そんな状態でなければできないようなことって、やれたとしても心が壊れますよね。

確かに「不可能」ではないんです。

不可能か可能かと「やれる」か「やれないか」は別なんです。

それを「全て不可能ではない」とやられてしまうと、人はそうできない自分をどんどん追い詰めてしまします。

本当にやりたことをする為には、どうしても「基礎的」な部分では「やりたくない」ことでも手に入れないといけないスキルはあります。例えるならスポーツを楽しみたかったらそれなりの体力や筋力が必要なのと同じです。

でも、僕が思うにやれないことは「やれない」し、したくないことも「しなくていい」のですよ。
本当にやりたいことってその「基礎」の部分以外は、楽しくて自分が一番「心地よい」ことを選んだ結果ですから。

このアーテイストの方ってこんな事も言っていたんです。
「当たり前や平凡を選ばなくてもいい」

「周りに合わせる必要はない」って言う意味で言われているんだと思いますが、これを大成功している人が言うと「スペシャルでなければダメ」と聞こえてしまうです。

多くの若者を勇気づけるためのメッセージで、「誰だってスペシャルな人になれる」って言う励ましのメッセージだと思います。

思いますが、それに励まされて頑張る人ってそんな励ましがなくてもできちゃう人なんです。
たまたまのきっかけがその言葉ってだけです。

でも、それって本当に少ないんですよ。

むしろ、「当たり前」で「平凡」しかできない自分を否定してしまうんです。

このブログの副題って「特別はなくても人生は変えられる」なんですよ。
僕は誰だって自分らしく自分の人生を生きていけると思っているんです。

ただ、それは「特別になれ」って意味ではないんですよ。

言い換えれば、「当たり前や平凡を選ばなくてもいい」は「当たり前や平凡では人生がうまくいかない」にも聞こえていまうんです。

とくに、当たり前や平凡とは対局にいる人に言われてしまうとね。

このブログで以前、大谷翔平さんの事を書きました。
大谷さんは「当たり前」も「平凡」も選んでいません。だから、今はスーパースターと呼ばれる存在です。でも、それを選べた理由の半分以上は持って生まれた「環境」です。

だから、僕はこういう人たちのことを「役割」だっていいます。
人々にそんな姿を見せる「役割」の人です。
このあたりのことは、この2つのブログ記事に書いていますので気になったら読んでみてください。
https://michibiki.blog/?p=40
https://michibiki.blog/?p=56

このブログ記事のタイトルは「大人と子供の違い」です。

大人になる過程でも大人になってからでも、何にでもチャレンジすることは必要です。
そして、人には「不可能」はありません。

でも、人には「できない」ことはあります。
それは、言い表すなら物質としての「人」には不可能はありませんが、「心」での人には「できない」があるんです。

そしてね。
不可能でなくなるには、心が「楽しい」と思っていないとダメなんです。

その事が自分にとって本当に楽しいかを気づくためには、最初から「不可能」って決めたらダメなんですが、それが「楽しくない」ってわかったら「諦める」事がとっても重要なんです。

そして、基準が「楽しい」であるのでそれが「平凡」か「当たり前」か「特別」かなんて関係ないんですよ。

起業して億万長者になって高級車やクルーザーを所有してって「特別」が楽しい人もいれば、サラリーマンでいることが「楽しい」って人だっています。

「平凡」か「特別」かで分けている時点で本質的な「楽しい」は見つからなくなります。

そして、どんなに特別でも「楽しくない」のならする必要はないのです。

子供はなんでも「できる」と思ってしまいます。
小さな子供が、お母さんがやってる事をどうしてもしたいと言って、やらせてもらったら大失敗したりしますよね。

自分ができることと、できないことの区別をしている。
もっと言うと、それを「したくない」「しなくてもいい」と理解しているのが大人だと思うんです。

「したくない」「やらなくていい」事を削ぎ落とした時が、「自分らしさ」なんだと思うんですよ。

それではこれで終わります。

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