「生まれた環境」って人それぞれで全く一緒って人は殆どいないと思います。
仮に双子であっても親や地域などは同じでも、「長男」「長女」などの立場は変わります。
実際、僕がカウンセリングなどの場で使う「持って生まれた素質」を分析するパーソナル心理学でも、本来は双子は全く同じ素質なのですがその素質を反対向きに出している事が非常に多いのですね。
これは、先程書いた「長男」とか「長女」「次男」「次女」のように生まれてきた順番で「立場」を決められるのと、眼の前に「自分とほぼ同じ相手」がいることで「反発」することで起きています。
双子の場合でも、「自分とほぼ同じ相手がすぐ近くにいる」って生まれた環境になるわけです。
では、この生まれた環境が「悪い方」だったときにその人は跳ね返せるのでしょうか?
もちろん、これには「度合い」って部分もあります。「悪い」の度合いにもよる部分は大いにあると思います。
よく、家が貧乏でもアルバイトなどして塾にも行かずに自分の力で勉強して東大に受かったなんて人が、「生まれた環境を理由にしている人は怠けている」的な事を言って物議になっているときがあります。
先程の「度合い」ってのがあるんで、中には言われるように環境や親などのせいにして努力をろくにせずに文句ばかり言っている人もいるのは事実です。
ただ、こう言う「努力すればどうにでもなる」「環境を理由にするな」って言う人は本当の意味での「悪い」って環境を知らないだけだと思うんですね。
実際、こう言うことを言う人たちの環境を見てみると、確かに恵まれてはいないかもしれませんが「努力」の及ぶ範囲でしかなくて、それをこう言う人達は「底辺」のように勘違いしています。
一昨年末に東大卒のアイドルが「環境のせいにして努力しない人間は嫌い」と発言した事で炎上しました。
その経緯を説明する中で、「環境が悪くて努力ができない人」に言ったのではないとしたうえで、「環境のせいにして努力しない人」が成功した人を「運がよかった」といって不快にするのが嫌だ的な事を言っています。
でも、この炎上した発言で「環境が悪くて努力ができない人」が傷つく可能性を釈明の段階でも気がついてない事自体がすでに「わかってない」って思ってしまうんですよ。
彼女が努力したことを否定するつもりはありません。
ただ、彼女は有名な進学校に行ったのですが人間関係で悩み途中で退学し独自で勉強をして東大に受かったそうなんです。
彼女は例えるなら、僕の住む鳥取県から東京に行きたいと思った時に親が「飛行機」とか「新幹線」のチケットを用意してくれたけど自らそれを乗らずに夜行バスをチケットをバイト代で買ったようなものです。
最初から歩いていくしか術がなかった人から見たらその発言自体が癇に障るのです。
「親ガチャ」って言葉がありますが、この生まれた環境って言葉には「親ガチャ」だけでなくいろいろなガチャが含まれています。
環境ガチャ、地域ガチャ、時代ガチャ・・・・
さっきの「東京へ」って例えには本質的には一個間違いがあるんです。
本当の意味での「ガチャ」がダメな時にはそもそも十代のころに「東大に受験しよう」なんて発想ができないんです。
大谷翔平やイチローがなぜ子供の頃に野球を本気で目指したのか?
吉田沙保里が子供の頃になぜレスリングを本気で目指したのか?
羽生結弦が子供の頃になぜスケートを本気で目指したのか?
親や生まれた環境、周りの人間の影響が多大にあるはずです。
大谷翔平の両親が毒親で生活保護でギャンブルばかりしていて、強い野球部なんて地域にないような田舎に生まれたとしても「今の大谷翔平」になっていたでしょうか?
それが「できる環境」ももちろん必須ですが、「それを目指そうと思える」って大人や環境がないとそもそも「努力」とか以前に目指そうとも思わないですよ。
それが本当の意味でのガチャに失敗した時の「東大を目指せない理由」なんです。
「自分でバイトすれば」「図書館で勉強すれば」なんて言ってる人たちには到底、思いつきもしない目指さない理由で「目指そうと思える環境」だった事自体が恵まれていたことに気が付かないのです。
人は恵まれていたほど「自分の努力だ」と言うのだそうです。
さて、ではその何らかの「ガチャ」に失敗したのならも人生の成功は無いのか?
この場合の「ガチャ」の定義は本人の責任ではない出来事のことです。
親を選んで産まれる事はできません。
地域も産まれる時代もです。
「成功」の定義にもよるのですが、社会的な地位や名誉、収入と言われるものを中心に考えるならこのガチャの失敗はかなり大変になります。
ある有名な税理士さんが言っていました。
「実家が太いほうが金銭的成功の確率格段に高い」
ちなみに「太い」とは「お金持ち」って意味ですが、この場合は「億万長者」とかではなくて「普通程度」のお金があれば後は本人の努力の問題です。
それ以下だと「不可能」とまでは言いませんが、かなりの無理ゲーになります。
では、そのガチャに失敗したら「幸せ」になれないのか?
それは可能です。
いえ、むしろ可能性は高くなります。
お金がある一定以下だと不幸になりやすくはなりますが、お金がある一定以上あることと「幸せ」はイコールではありません。
そして「幸せ」とは、ある一定上の「苦労」をしていないと気が付きません。
その一定上の苦労とは、ある人は多くてある人は少ないとか言うものではなくて、誰もが超えないと気づけない領域があるんです。
そしてその「苦労」というやつは、大きく2種類あるんです。
自分の責任の割合の多い苦労と自分の責任の割合の少ないもしくはゼロな苦労です。
親ガチャなどは「割合が限りなくゼロ」です。
この割合が少なければ少ないほど苦労の割合は大きくなります。
なので、親ガチャとかの失敗ってこの必要な苦労の気づく領域はいきなりほぼ超えていたりするんですよ。
逆に親ガチャとかが上手くってる場合は、それ以外での体験ってほとんどが「自分の責任の割合の大きな苦労」になってしまうので、これで気づくのはかなり大変なんです。
そうなると、そんな「生まれ」などの有利な人は、自らがそこに「苦労」を課さないといけなくなります。
しかし、さっき書いたように「生まれ」に成功している人は、社会的な成功はしやすいのでその状態でわざわざ自分に課すことが簡単にはできません。
これにちょっと似た話が、「お坊さんの修行」だと思うんですね。
お坊さんになるには仏教大学を出てもなれますが、本物のお坊さんになるには「修行」をしないといけません。
知り合いの「修行」を経てお坊さんになった人は非常に立派な人で、お話を聞いてもいろいろと新たな気づきをもたらしてくれます。
この「修行」が「苦労」の部分だと思うんです。
生まれた環境や生きてきた境遇はみんなが違います。そこで一定以上の苦労を誰にでも与えるためにするのが「修行」でそれを超えていないと「お坊さん」と言う悟りに近づいた人にはなれないのだと思います(もちろんこれも全ての人ではないですが)
僕の知り合いのお坊さんの修行はかなりの「荒行」のようでした。
そしてお坊さんの「位」を上げるには更に不条理な命に関わるような修行が必要になります。
1日48km、高低差1300m以上の険しい山道を往復16時間かけて歩くこと、年間120日。それを9年の歳月をかけて1000日間歩み続ける「大峯千日回峰行」とか「飲まず、食わず、眠らず、横にならず」を9日間行う「四無行」なんていうのもあるんだそうです。
人工的にする苦労はこのぐらいしないと親ガチャを失敗した人には及ばないということです。
だって、「修行」である以上は諦めて「ギブアップ」ができますからね。
生まれた環境の苦労には「ギブアップ」なんて許されていませんから・・・・
こういう事を書くと「生まれの苦労は十分にあるのに幸せになってない人はいくらでもいる」という人が出てきます。
確かに、それは間違いなくそうですしそんな人の方が多いと思いますよ。
それは、「必要な苦労」はとっくに超えているけど「気づく」事ができてないんです。
このブログってそんな人達に主に読んでほしいのです。
このブログではその「気づき」の部分をできるようにお話していきたいと思っています。
それではこれで終わります。