差別もなく平和になる世界。
大昔から多くの人が願っているのに叶わないこの世界。
何が理由なんでしょうね。
大昔から頭のいい人たちがいろいろ考えたり行動したりしても実現しないのだから僕に正解なんてわからないんですが・・・なので、これは僕が勝手に思うことです。
「差別をしない」「みんなが平等に」
これってこの世界を作るのには不可欠だとは思うんですよ。
でも、こんな事を叫んでいる人の多くってどことなく信用できないんです。
それは、こう言っている人ってあくまでも自分たちが思う「正しさ」の中にいる人に対して「差別しない」とか「平等」でしかない気がするんですよ。
言い換えたら、自分たちで「正しい」と言う基準を作ってしまって、その中にいる人は差別しないし平等だと思っているんです。
そこから外れているとそれは全てが「悪」であって、その考えを治すか(自分達の思う正しいに)かそれができなければ排除してしまおうとします。
これって差別をなくしてもいないし平等でもないんですが、こういう人は「正しくない」から問題でその正しくない人たちがいるから差別や不平等が起きるのだって考えなんですね。
僕、思うんでけどね。
そもそも、全ての人を受け入れること事態がどだい無理なことなんですよ。
僕がカウンセリングの仕事で独自のパーソナル心理学と言うのを使います。
これは人の持って生まれた素質を分析することで、人の行動や言動、価値観、考え方や捉え方などを分類する方法です。
僕はこれをカウンセリングの中で自分を客観的に知ったり他人との違いを知ることで人間関係の悩みの解消に役立てています。
興味のある人はこちらのブログでいろいろ書いていますので参考にしてみてください。
https://getterlabo.com/
このパーソナル心理学でみた時に、人と人って多くの人が思っている何百倍も違うんですよ。
そしてその素質ってやつが違うと、やっぱり苦手だつたり嫌いだったりする相手っていますし、その人達とはどこまで行っても価値観は合いません。
そして、人と人ってこれだけでなく親も違えば育った環境も生きてきて出会ってきたものも違うわけですよ。
これが国が違えば環境なんてぜんぜん違うわけです。
習慣も価値観も正義も違います。
最近見たネットでの記事でこんなのがありました。
韓国の男性で日本で仕事をされている人が日本人の女性と結婚する事になりました。
この結婚するお二人の共通の友人が投稿した記事なのですが、この男性は仕事もできるし日本人の友人も多く誰もが優しくて素晴らしい人だと言うんだそうです。
この記事を書いた人もそう思っているそうなんですが・・・
この男性が結婚が間近になった時にこんな事を言っていたそうです。
「結婚をしたら韓国で両親と一緒に住む。妻になる人には一緒に韓国に来てもらい両親の面倒もみてもらうことになっている」
これを聞いた投稿主は「??」となったそうです。
友人であるこの韓国の男性の妻になる女性は、バリバリのキャリアで東京でやりたい仕事をして夢も持っています。東京を離れるなんて考えていませんし義両親と同居も昔から嫌だと言っていたはずなんです。
そこで、この韓国の男性に「○○ちゃん(韓国の男性の妻になる人)は韓国に行ってあなたの両親と一緒に住むって言ったの?」と聞いたそうです。
すると、この韓国の男性は「いや、彼女は東京を離れたくないし両親との同居も嫌だと言ってるよ」と答えました。
「え?じゃあどうするの?」と聞くと。
韓国の男性は不思議そうな顔をして「え?どういうこと?結婚するんだから彼女は旦那である僕の言う事を絶対に聞かないといけないんだから、彼女がどうしたいかなんて考える必要なんてないでしょ。どうしてそんな事を聞くの?」
この韓国の男性は酷いモラハラ体質でもなく、これを当たり前のように答えたそうなんです。
その後、この投稿主は韓国の男性に何度も「彼女と韓国に行く話と両親との同居も事を話し合って」と言ったのですが、この男性は「なんでそんな事をする必要があるのかわからない」って言っていたそうなんです。
確かに韓国という国は男尊女卑がかなり強いと言われています。すべての人がこうではないでしょうが、この韓国の男性の価値観ではこれが正しいのです。
これは多くの日本人女性は受け入れれませんし、日本人の男性でも受け入れらない価値観だと思います。ましてや、男女平等が強い欧米では訴えられかねないレベルの発言ですよね。
こんなふうに、どうやっても受け入れれないものや苦手なもの許せないものってあるんだと思うんですよ。
「全てのものをありのままに」
そんなふうに受け入れることができるのなら、それはどんなに価値観や正義や素質が違っても仲良くできるんだとは思いますが、それって全てに人に釈迦にでもなれって言っているようなものですよね。
それ自体が無理ゲーだと思うんですよ。
それなのに、平等だとか平和を大きな声で叫ぶ人は、「全ての人間を受け入れる」的に言うんです。でもそんな人ほど、最初に書いたように「自分の価値観の中で」のみ受け入れるんです。
その価値観の外にあるものは「悪」として排除しても構わないと思っていたりして、その行動も「正義」だと思ってもいるんですね。
「地獄への道は善意で舗装されている」
この言葉にはいろいろな解釈があるそうですが、僕はこの言葉は善とか正しいと言えばどんな「悪」を行ってもいいと思っている人たちがいるって意味に思えてしまうんです。
だから、僕は本当の平等とか平和って「嫌い」なものは「嫌い」で構わないし「価値観」の合わないものは受け入れなくてもよいと思うんですよ。
してはいけないのは「否定」だけです。
「嫌い」と「否定」は根本的に違います。
そして「価値観」が違うことも「否定」とはイコールではありません。
でも、これの区別ができない人って結構います。
これは、「多様性」って言葉にもつながるんですが、多くの場合に多様性を主張する人って「自分の思う多様の範囲内で」の多様性だったりします。
以前、どこかのトイレで男性と女性の区別なく男女以外の人も受け入れるために「男女」という区別のないトイレを作った話が話題になりましたが、これって結局はトラブルが相次いで女性が怖くて使えないから、警備員を配置する事になって、それでも使いづらいって事で男女の仕切りを設けたって意味不明の展開でした。
本当に「多様性」を言うなら「男性がいる可能性があるなら怖くて入れない女性」と言う多様性も重視しなければいけない事になります。
そしたら成り立たないですよね。
トイレって限定した空間で「男女」(それ以外もいるけど)ってことだけでも、こうやって成り立たないんですから「世界」なんて絶対に無理な話だと思うんですよ。
だったらどうしたら?
「嫌いと否定は違う」って書きましたよね。
だから、いいんですよ。
嫌いなものは嫌いで、苦手なものは苦手で受け入れれないものも受け入れなくていいんですよ。
ただ、否定しないだけ。
近寄らないし仲良くもならないけど、別に存在しててもいいしその受け入れれない価値観を好きな人がいてもぜんぜん構わないって思ってればいいだと思います。
そして、自分と価値観の合う人や大好きな人と手を繋いでいればいいんです。
その大好きな人は、自分とは価値観は合う人ですが同じ価値観の人ではないはずです。
だから、自分では手を繋げない人と手をつなげるかのしれませんし、その人がダメでもその人と価値観の合う、でも価値観の違う人がまた別の人とって手を繋いでいけばどこかで、自分では絶対に受け入れれない人とも手をつなげる人が現れるだと思います。
そうすれば、最後は皆が手を繋いでつながれるんじゃないですかね。
世界中の皆と同時に手を繋ごうとするから無理が起こるんですよ。
それをするには「誰か」の正しいに合わさないとできませんからね。
これって、「世界平和」とか「みんな平等」とそんな大きな話ではなくて、自分の周りに人間関係をよくする方法だったりするんですよ。
自分の周りの人にこんなふうに思えていたら人間関係の悩みは減ると思います。
それではこれで終わります。