人から認められる自分になるには

人生論

人から認められるって幸せに生きていく上では大切ですよね。

これは「自己肯定感」とかにも繋がってきますし「承認欲求」などにも影響します。

よくSNSなどで炎上するような動画をアップしたり、他人の書き込みに対して一方的に否定するような事をコメントしたり、荒唐無稽な陰謀論を「俺様は知ってるぜ」って上から目線で書き込んでいたりするのも、この自己肯定感や承認欲求の足らなさが関係していたりします。

多くの人は自己肯定感を上げる事がイコールで人から認められる事だと思っているのだと思います。
これ間違ってはいないのですが、少し勘違いしているところでもあるんですね。

まず、「自己肯定感」って話だけをするのでしたら「人から認められる」は必要ないんですよ。
そもそも、この「人から認められる」ってのは「他人の価値観」が基準になっていますよね。

「認める」って言葉の「認」と言う漢字って、「心臓に刃を突きつけて言う」って意味で外部から価値観を強要されている状態です。

なので本来、自己肯定感に必要な「認める」は「自分が」でなければだめなんですよ。

でも、そこで「こんな自分では認められない」と言う思いがあるので、他人が認める自分になることが自分が自分を認めれる事だと思ってしまうのですね。

本質的には「他人」って関係ないんですよ。

自分が「これでいいのだ」と思えればそれがなんであれ「答え」であって、そう思えたら「自分を受け入れる」にできるんです。

「認める」ではなく「受け入れる」のほうが言葉的には正しいのだと思いますよ。

昔、知り合いがこんな事を言っていました。

「凡人と秀才と天才の言葉の違い」

凡人「どうしたらよいですか?」

秀才「これでいいのですか?」

天才「これでいいのだ」

凡人は他人に価値観を委ねます。
秀才は価値観を見いだせますが他人からの評価も必要です。
天才は「これでいいのだ」って自分を受け入れています。

天才バカボンですね笑

自己肯定感が高い状態と言うのは、自分の事を「これでいいのだ」と思えている時なんです。

だから、「自分を変えないと」「自分のここをやめないと」「これができるようにならないと」

これは自己否定でしかなくて余計に自己肯定感を下げているんです。

確かに「変える必要」はあるのだと思いますが、それは「本当にやりたいこと」「本当に好きなこと」が見つかれば自然と変えますし、変えざるを得ない状況に追い込まれても変えますからね。

それは「自己肯定感」を上げるためではありません。

自己肯定感は自分を他人に認められる自分になるために何かを「足し算」ではなくて、他人から植え付けられた自分には必要のない価値観を手放していく「引き算」だってことです。

では、自己肯定感と他人から認められることは関係ないのかというとそうでもありません。

今お話したように、自己肯定感を上げるのは「他人」ではなく「自分」の問題です。
でも、人間はそんなに強い人ばかりではありません。

このブログは強い人を対象に書いているのではなくて僕みたいに弱い人間を対象に書いています。

だから、確かに自己肯定感を上げるのは「自分」ですが、それでも「他人」から認められた方が自分を受け入れやすいのも確かです。

「人なんか関係ない。俺は俺が良いと思っているんだから何が悪い」って人ならそれでいいのでしょうが・・・こんな人は自己肯定感は高いかもしれませんが、「協調性」とか「共感力」が欠落しているので別のところが悩みになってうまくいきません。

自己肯定感は「自分を受け入れること」と書きました。

この世界では、他人は「自分の鏡」なんです。
心理学なのどでは「自己投影」なんて言葉もあります。

自分の内面が他人に反映されてしまうんです。
この反映はどんな状態かっていうと「自分の内面と同じものを相手から引き出した状態」になります。

例えば、自分が「早起きができないダメなやつ。だから毎日、早起きをして生きないと他人からは認められない」と思っているとしましょう。

すると、他人から「おまえは、早起きもできない駄目なやつだ」って言われるのです。
他人からそういう考えを引き出して自分に向けさせるんですね。

そして、そういう考えの人ばかりが集まってきます。

すると、余計に「早起きできない自分は駄目なやつ」って自己否定が強まりますよね。

では逆に「早起きできない自分も自分らしさだから、これでいいのだ」と思ったとしましょう。

するとそれが他人に映りますから、周りの人は「早起きする必要がない」「早起きはしない人」と認めてしまいます。

「自分を変えなきゃ」が他人に映ると否定され、「これでいいのだ」が映れば認められるんです。

そしてもう一つ。
人から認められるのに必要なことがあります。

それは、多くの人が嫌がることをしないってことです。
以前、お客さんでセッションが終わった後にうちの駐車場に車を停めたまま無断で近所のカフェに行っていた人がいました。

その人のせいで次のお客さんが車が停めれませんでした。
ちなみにその無断で停めたお客さんの悩みは「友だちができない」「人から嫌われる」でした

他人からは認められていないわけですよ。

それは、普段からこんな行動をとるからでもあります。

でも、これは直接的に迷惑をかけられた相手が「認めない」だけではないんですよ。
そうされてない人も認めないんですよ。

先程、「これでいいのだ」なら自己肯定感が上がり他人からも認められるって書きましたが、こういう事を言うと「だったら自分がこれでいいのだと思っていたら人を殺しても認められるってことなのか」とか言い出す人がいます。

その答えは「YES」です。

例えば戦国時代なら敵の武将の首を取れば多くの人から認められたでしょうね。
その世界ならそうですよ。

でも、今の時代はそうはいかないですよね。
人を殺せば周りから非難されるだけでなく警察に捕まり刑務所に行くことになります。
全国放送のニュースになれば多くの人から非難されます。

仮に逃げれたとしてもいつまでも日の目を見ない生活をしながら怯えていないければなりません。

人の心は「幸せになりたい」って思っているんですよ。
だったら戦国時代なら別ですが、現代で人を殺しても幸せにはなれないのは心は知っていますから望まないんです。

それは「これでいいのだ」にはならないんです。
どこかで作り上げた「エゴ」がそうさせてるだけです。

ちなみに「エゴ」は「こうでなくてはならない」ですから「これでいいのだ」とは対極です。

「人を殺す」なんて極論を言いましたが、これはさっきのお客さんのように僕や別のお客さんに迷惑をかけるのだって「他人から認められない」ってのを心は知っています。

身体障害者用の駐車場に健常者が車を停めるのも、道にゴミを捨てるのもみんな心は他人から認められない行為だって知っています。

だから、「誰も見てない」とか通用しないんですよ。
だって「自分」が見ていますからね。

無意識に「認められないことをしている」って認識しています。
そしてそれが他人に映りますから、当然ですが他人は認めません。

まとめると、他人に認められるには自分の中に「これでいいのだ」を作ること。
これは凄く小さいことからで構いません。

そして、本当にやりたいことに必要なら人は楽しんで自分を変えますから、「変わらきゃ」は必要ありません。

そして、多くの人から嫌われるような行動はしないことです。
誰もみてなくても自分の無意識は見ていますからね。

横断歩道で車がまったく来なくても赤信号をだと渡らないみたいな事から始めるとよいですよ。
そして、そんな自分を「かっこいい」と思うことですよ。

他の人が当たり前みたいに渡っていく中で渡らずに待っているんですよ。
そしたら、あなたはその渡った人たちよりもかっこいいのです。

だってそれこそが「これでいいのだ」なんですからね。

それではこれで終わります。

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